地車見学

2000.11.18 和歌山県橋本市 市脇
和歌山県橋本市 市脇の地車です。

典型的な堺型地車ですが、側面板高欄出人形、三枚板の出人形とも通常のものより彫物が多いです。また、彫物は、鎧の模様など繊細に彫られており、鎧の部分の獅子にもガラス目細工がほどこしてある。下に写真がありますが、西岡弥三郎の銘が入っている数少ない地車であり、西岡弥三郎への注文地車か、西岡弥三郎渾身の作であったとおもわれます。新調は明治10年から20年前半までだと思われます。

地元の人の話では、修理時に屋根裏から方違神社の札が出てきたとのことなので方違神社氏地の地車だと思われます。

橋本へ渡った経緯は、明治29年8月1日の堺住吉大社のお祓い祭りでの喧嘩により堺旧市では地車曳行ができなくなった。その余波を受け方違神社氏地も地車曳行は中止になった。しばらくの間、所有町も地車を保存していたが、曳けない地車を所有していても仕方がないなどなんらかの理由により売却を余儀なくされた。しかし、祭りを知っている人にとっては売却は、いたたまれないものであり、売却先を知ってしまっては、地車見物に出かけ地車を見るたびにまたその気持ちがフツフツと湧いてくると世話人は考えた。そのため、地車をばらして堺の港から船に乗せ和歌山へ、そこから人力または牛馬によって橋本まで持ってくることで元の所有町にも譲渡先がわからないようにし、譲渡先でも元の所有町がわからないようにした。(推測がかなり入っています)

結局、譲渡先は橋本市市脇であり、前記のように橋本まで運搬し、地元もしくは地車大工によって組み立て曳行してた。そして昭和28年か29年頃、すでに地車大工を辞めていた川崎佐太郎が図面を持って市脇を訪れ、図面通りに地車を組み立て直したそうです。

また、後年(昭和42,3年)頃に元の所有地の老人が市脇を訪れ、「長年探した地車が見つかった、死に土産もう一度地元でこの地車を曳きたい」と地元での曳行を望んだそうでなので、このことからも地元では譲渡先はひた隠しにされ隠密裏に売却されたと思われます。

蛇足ですが、大佐の説明でも書いていますが、川崎佐太郎は昭和30年になくなっており、この地車の組み立てが最後の大工仕事ではなかったかと推測します。また命日が11月17日と市脇で私が地車を見せてもらった前の日ということで因縁めいたものを感じました。

<以上ですが、明治29年当時の方違神社氏地所有地車をご存知の方はご一報ください。市脇地区の方が調べておられます。>

注)市脇では地車購入は明治28年と口伝されているそうで、事実そうであるならば堺の喧嘩による影響による売却云々は、事実とはことなることになります。しかし、前述の通り、彫師が弥三郎の渾身の作と思われる彫刻で製造後せいぜい20年程度しかたっていない、方違神社の札、老人の話から総合して、その当時の時勢から堺の喧嘩による売却が一番妥当性があると思い、明治29年からそれほどくだらない時期に購入が真実ではないかと類推し文書としました。

堺彫師 西岡弥三郎

正面出人形三枚板(左)三枚板(右)三枚板(左)、、鬼板

2000.11.18 和歌山県橋本市古佐田
昭和26年、五条市阿田町より購入

三枚板は三国志。脇障子はついておらず、古堺型のようだが型にははまらない。

2000.11.18 和歌山県橋本市川原(舟地車)

県の有形民族文化財に指定されています。

駅前パレードと神社では担ぐそうです。

小屋前に貼ってあった舟地車の説明

2000.11.18 和歌山県橋本市東気(下地車)
残念ながら小屋の扉を開けることができず姿はありません。

天保11年製作の墨書と花岡源助の墨書及び岸極の焼印

今の下地車にはない彫物の人物の表情!

どの木鼻も男前の顔してます。小細工抜きです。

2000.11.18 和歌山県橋本市南馬場(担地車)
初めてみました担い地車。

担ぐので屋根は板張りではなく和紙を貼るそうで骨しかありませんでいた。

比較対照がないのでわからないと思いますが、めちゃめちゃでかいです。これを担ぐのは大変だったと思います。

今は、道が細くなり境内からだせない状態です。

inserted by FC2 system